投稿者 : manager 投稿日時: 2016-07-26 20:01:03 (691 ヒット)

第6回口頭弁論報告会

 

恒例の元気のでるあいさつ

第6回口頭弁論の報告会は、15時から市民会館うらわで行われました。応援団長あいさつでは、傍聴前に50人くらいでミニパレードを行ったこと、提訴一周年の「ハトが泣いている」上映会に150人が参加したことが報告されました。

次に弁護士のみなさんから。「今日も傍聴がみなさんであふれていて、心強い気持ちで法廷に入っていくことができました」とのことばがありました。原告、句会のお仲間たちと続き、「いろんな人と話していくなかで私のなかにあったものがひきだされて、いま一生懸命がんばっている」等々いずれもこの間に育くまれた関係がわかようなお話でした。


投稿者 : manager 投稿日時: 2016-06-27 14:35:35 (397 ヒット)

みなさま

 

佐藤一子

 

昨日の1周年は140人の参加で満員状態、皆様のご尽力に感謝します。

松本武顕監督の映画「ハトは泣いているー時代の肖像」は、さいたま市との交渉をくりかえし訴訟に至る九条俳句の1年の歩みと、都美術館から作品掲載拒否を受けた彫刻家の中垣克久さんの戦い続ける心のうち、ドイツベルリンへの道、アーチストの1年の戦いが交互に映し出され、「今という時代」を戦時体制、ファシズム、平和の歴史の文脈に位置づけて、自分たちの立ち位置を照らし出される思いでした。

 

1周年、まさに視野を広げ、深く学び続けているという実感です。

 

石川弁護士が、英のEU離脱に触れられて「民主主義」を問いかけられたこともこの映画に連なる問題、思わず一句がでました。二次会でご披露しましたが、恥ずかしげもなく、メールで献上。

 

梅雨さなか 道広げゆく 一周年


投稿者 : manager 投稿日時: 2016-06-26 14:34:05 (354 ヒット)

昨日の集会 準備ご苦労様でした。俳句の会からたくさん参加されたと聞きました。現在の代表者の方の発言もありました。良かったと思います。しなやかな抵抗が共感を広げていることが大きな励みになります。

映画の雑感です。

1 もともと偏見がありまして、130分の長尺のプロパガンダ映画を見るのは苦痛だなという思いで出かけましたが、長いことは長かったのですが飽きずに見ることが出来ました。おそらく、創作者の創作活動によりそった形で創った姿勢によるものだと思います。

2 都美術館が芸術家の表現活動に介入してきたとき、彼の属する芸術家集団、あの美術展を主催するグループはどういう態度をとったのでしょうか。美術館を表現活動の場とする他の芸術家集団はどうしたのでしょうか。抗議し、あるいは、強行するなら一斉に展示物を撤去するとか、別の形の表現活動で不服従の態度を表明するなどという創造的抵抗をしなかったのでしょうか。彼は孤立したのでしょうか。彼の深酒の原因はそこにもあるのではないでしょうか。

3 彼自身の内面はどうだったのでしょうか。みんなに迷惑をかけないようにと考えて、展示物の一部の撤去に応じたようですが、そこに躊躇いはなかったのでしょうか。自分を責める敗北感はなかったのでしょうか。それが見えないように思います。

4 蛇足ですが、彼は高村光太郎の戦後の行き方に批判的な評価をしていたように思います。智恵子抄や道程など私に馴染みの詩人ですが、彼の戦後詩の「暗愚小伝」は、戦争協力への自己批判詩です。日本の文化人の中では、戦争協力についてもっとも誠実な自己批判をした芸術家の一人だと思っていましたのでそこは違和感がのこりました。

 

生意気を言いまして監督さん 済みません。昨日からひっかかっていたので。引き続き御健闘を期待します。

佐々木


投稿者 : manager 投稿日時: 2016-06-06 11:23:47 (376 ヒット)

口頭弁論の様子

第5回口頭弁論が5月20日に行われた。傍聴は定員を上回り、今回も抽選となった。ひとりの傍聴者のつけていた「安倍政治を許さない」のワッペンを巡って開廷前にもめごととなったが、弁論は時間通りに開始された。原告側から準備書面(5)(6)、被告側から準備書面(4)が提出され、パワーポイントによる弁論は原告側のみから行われた。今回は、これまでの被告側への反論としての原告側の主張で、公民館だよりは、被告のいうような単なる「お知らせ」ではなく、学習成果発表、学習機会提供、学習支援の役割を担っているものであることが、実際の三橋公民館だよりを分析したうえで主張された。また、俳句掲載を拒否しても俳句の創作活動や対外的活動に干渉していないので学習権侵害にはあたらないという被告の主張に対しては、自己学習と相互学習で実現するおとなの学習権の視点から反論し、俳句掲載拒否は原告の学習権(おとなの学習権)を侵害しており、被告の反論は認められないと主張された。さらに、俳句掲載拒否が表現の自由を侵害するという原告の主張に対しての被告側の反論、「掲載請求権が保証されない」「表現の場を与えたものではない」に対しての反論が、パブリック・フォーラムの法理等に基づいて行われた。

 

恒例の報告会

佛教会館での報告会の冒頭では、市民応援団武内団長から、一人ひとりが声を出して行動し、生きづらい世の中を少しでも明るくしたいという挨拶があった。法廷よりもわかりやすく配慮された弁護団からの報告の後、長澤成次先生(千葉大学教授)のゲストスピーチと続いた。以下そのスピーチの一部を掲載する

 

公民館だよりというもの

公民館だよりがもっている役割を、実際の三橋公民館の公民館だよりを分析して、学習成果発表、学習機会提供、学習支援とまとめられたのは非常に説得力のある中身で、全国の公民館だよりをみても、まさにこれが軸になっています。ただ、具体的な記事のしかたは色々あります。公民館というのは地域と非常に結びついた教育機関ですから、そういう意味では地域性を反映しているのが公民館だよりです。公民館だよりは、まさに公民館の活動の水準、レベルを的確に表しているものだと感じています。さいたま市の場合は、60館全部出していることはすごいことです。しかしどうしてこういう問題が起きてきたか背景を考えてみる必要があります。

 

政令指定都市と公民館

政令指定都市の公民館の在り方というものが、問われています。政令指定都市になり区行政が生まれ、区というものを軸に公民館が再編合理化され、後退させられていると思います。全体を掌握する生涯学習総合センターがあり、10の拠点公民館があって地区公民館がある、というヒエラルキー構造みたいものがあり、住民にもっとも身近な公民館である地区公民館が、職員体制もだんだんと弱められ、権限も剥奪されてきた。そういうことで今回の公民館の問題が出てきていると思います。

 

職員体制という問題

大人の学びをきちんと保障していく、学習の自由、教育の自由、社会教育の原理というものは学校教育と違いますので、そういうものをきちんと理解した職員の方たちが公民館に配置されて、住民の学びを支えていく必要があります。なかなか専門職が配置されていなかったり、たとえば公民館によっては学校関係の方がきたり、そういう職員体制というのが今回の問題のなかにあります。

 

複合化された要因

実はそういうものが積み重なる仕掛け、公民館の在り方が変えられてきたということがあると思います。本来であれば住民に身近な地区公民館こそ充実し、そこに権限というものがきちっとあるのが望ましく、公民館長の権限を含めてきちんと保証していくことが大事だと思うのですが、逆に住民に身近なところの公民館がどんどんうすくなって、権限は上の方に行くような、そういう公民館の仕組みがとくに政令指定都市の場合には、つくられてきたと思います。

 

教育委員会をどう考えるか

教育委員会というのは一般行政から独立した行政委員会です。戦後、一般行政から独立した教育委員会を作りました。いろいろな矛盾はありますが、現状でも教育委員会は、一般行政から独立した行政委員会であることは間違いありません。教育委員会というのは、教育を受ける権利、積極的にいうと学習権といっていいと思うんですけども、それを保障するものです。人権としての教育を保障する重要な教育委員会であり、そのもとに公民館がある。公民館は単なる公共施設ではなく、公民館だよりもたんなる広報ではない。教育の論理、社会教育の論理に基づいて公民館だよりがだされていることがすごく重要だと思います。

 

「梅雨近し 弁研ぎ澄ます 若手力」

最後に恒例となった佐藤一子先生(東京大学名誉教授・埼玉社会教育研究会)のまとめがあった。法廷を取り巻く社会の動きとして、あきる野市でのチラシ配架拒否問題にふれ、また、「月刊社会教育」5月号(国土社)に本俳句訴訟の特集が掲載されていることも伝えられた。公民館70年という歴史の節目に、全体をふりかえりながら公民館の存在意義を問う、たくさんのサークルがそこで学んでいることの意味を問う、重要な意義のある裁判だと改めて感じたと話され、最後は恒例の俳句でしめられた。

 

岩松真紀 社会教育推進全国協議会事務局次長

 


投稿者 : manager 投稿日時: 2016-02-26 12:28:17 (388 ヒット)

元草加市立川柳文化センター館長・社全協県南支部・「門」同人 村木節子

 

 幸いなことに私は定年まで社会教育の仕事をすることができた。最初の勤務地は農村地域であったが、宅地化が進み、新旧住民の触れ合いが地域の大きな課題であった。話し合いの結果、費用がかからず、年齢にも関係なく、互いに学び合える場として俳句教室を開催した。当時、短歌、詩、源氏物語の教室はあったが、俳句教室は新鮮だった。予定どおりの参加者が来て、サークルになり、鈴木鷹夫(故人)主宰の「門」の結成にも繋がった。
 そんなわけで、今回の俳句を通しての公民館のあり方を問う裁判は他人事ではなく、自ずと血が騒ぐ。
 三回目の傍聴の時も思ったことだが、原告側の弁護士は本気で弁論に臨んでいるのに、被告側にはその様子が見えない。たまたま依頼されたから、仕方なくやっているという様子なのだ。丁々発止の論戦を期待したのにがっかりした。
 一月三一日の緊急シンポジウムにも参加した。さいたま市に起きている「九条俳句訴訟」と「市民活動センター問題」を関連づけての開催、この早い対応に驚き、弁護士・社会教育研究者・市民が気持ちをひとつにして学び合っていることに爽やかな感動を覚えた。この取り組みを通して、社会教育を市民の手に取り戻す活動にいままで公民館を避けていた人々が加わっている。これこそが願っていたことなのだ。
 誰かも言っていたが、私もこの裁判に悲壮感はない。裁判に勝ち負けがあっても、理はこちら側にありという確信があるからだ。この裁判を通して、地域に社会教育の認識の輪を広げること、市民の一人ひとりが自分の言葉で自分の気持ち・考えを声にすること、こんなことのできる地域づくりに貢献したいと思っている。
 結審のあと、ユニークな句会ができたら嬉しいなあ。


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